がん哲学との出会い

医療の原点の地、故郷・出雲が私を「がん哲学外来」へと導いた

島根県の出雲大社の参道脇に、日本最古の歴史書『古事記』に登場する大国主命と兎の像が建っています。この兎は、対岸へ渡ろうとして、ワニたちをだまし、あと一歩で対岸というところで、「お前たちはだまされたんだぞ」と高笑いした「因幡の白兎」です。兎は怒ったワニに皮をはがされて浜辺に打ち捨てられた。痛くて泣いている兎に、通りかかった人たちがいろいろな治療法を教えたが、痛みはひどくなるばかり。そこに大国主命が通りかかり、兎に正しい治療方法を授けたところ、兎の痛みは消え、兎は深く感謝した――。

この神話は、病気は間違った治療を行えば悪化するが、正しい治療法であれば治る、という今でいう「的確治療」の重要さを説いています。

兎がワニをだましたからといって、それを咎めず治療をした大国主命。つまり、1200年も前の大昔に、「誰に対しても公平な医療を」という医学、医療の根本を教えていたのです。じつはこの神話を知らない学生が多い。私は機会あるごとにこの話をしています。

医療の原点を教えてくれる大国主命の出雲大社から8キロほど、私は日本海に面した小さな港町・鵜峠で生まれ育ちました。幼い頃、熱を出しては、母に背負われ峠を越えて隣の鷺浦の診療所へ。母の背の温もりのなかで、私は医者になろうと思ったのです。あれは、小学校の卒業式のことでした。来賓の方が言ったのです。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と。札幌農学校を率いたウィリアム・クラークのことも、クラーク精神が新渡戸稲造、内村鑑三という私が敬愛するふたりを生んだことも知らぬまま、クラークの言葉は、13歳の私の胸に深く刻まれました。ちなみにクラークを日本に呼んだ教育者が新島襄。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で人気となった八重さんの旦那さんです。そして、物寂しい港町で遊ぶ私たち子どもたちを、いつも見守っていた老人たち。人は見守られてこそ、そこに安心があるのだ、と子ども心に思いました。そう、故郷の原風景が、「がん哲学外来」へと至る、指針でもあったのです。

樋野興夫樋野興夫(ひの・おきお)

医学博士/順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授。米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、フォクスチェースがんセンター、癌研実験病理部長を経て現職。近著に『使命を生きるということ 真のホスピス緩和ケアとがん哲学外来からのメッセージ』(共著、青海社)『がんと暮らす人のために がん哲学の知恵』(主婦の友社)など。(取材時現在)

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