がんと闘う名医

脇道を目指すなかで 切り開いた 医師の本道 ―本間之夫(東京大学大学院医学系研究科 泌尿器外科学教授)

2017年5月2日

「人が集まるところ、いわゆる本道は選ばない。銀座通りも1本入った道を歩きます」
こういって本間は笑う。
医師の世界は社会の中心から離れているように見えたから選んだ。
メジャーとはいえない泌尿器科で「放っておかれた病気を探して治療する楽しみ」を見出した。
「困った人を助けるだけ」と本間はいう。
それこそ医師の本道そのものではないか――。

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本間之夫(ほんま・ゆきお)
1953年、京都府生まれ。78年に東京大学医学部医学科卒業後、都立駒込病院、自衛隊中央病院、三井記念病院、東京逓信病院の泌尿器科に勤務する。83年、渡米。ノースウエスタン大学医学部病理学研究員として2年間研鑽を積む。帰国後、88年に東京大学泌尿器科講師となり、2000年、同助教授に。03年に日本赤十字社医療センターに赴任し、泌尿器科部長として診療・研究に当たる。08年、東京大学大学院医学系研究科泌尿器外科学教授に就任。日本泌尿器科学会理事長、日本老年泌尿器科学会理事長、日本間質性膀胱炎研究会代表幹事などを務める。(取材時現在)

 

 

1953年生まれの本間之夫は、今年で63歳。 「あらためて、本道とは違う道を歩んできた人生だった」と振り返る。

京都府北部の舞鶴市。のんびりとした町に生まれた。警察官や医師という職業に「よいことをする人」という漠然とした憧れがあったというが、「それが医師になった理由かと問われると少し違う」という。

高校2年生のときに会社員の父親の転勤で神奈川県に移り住む。翌年、大学受験が訪れた。「一応、 勉強はできましたから、文系か理系、どちらにも進むことができました」と本間。文系を選べば、経営者や政治家を目指して政治・経済と関わり、社会の真ん中で仕事をすることになる。理系ならばメーカーなどで技術職に就き、やはり社会と関わりながら開発に明け暮れることになるだろう。「どちらもやりがいのある仕事ですが、自分のやりたいこととは何かが違うと感じてしまったのです」。

その点、医師は、社会の中心から離れた仕事に見えた。社会全体を一歩引いた目で見られる。そんな気がした。

「社会的地位や思想に関係なく、すべての人間が健康でいたいと願います。それは時代が変わっても同じで、人は医療を必要とし続けるのではないでしょうか」

社会の中心からは距離を置き、人間の根源に触れるような医学の道に惹(ひ)かれた本間青年は、東京大学医学部に入学した。

卒業後、本間は泌尿器科医となり、関連病院を回り、30歳で渡米してがんの研究に専念した。2年間の留学を経た後、34歳で東京大学に戻って外来医長に就任した。

「外来にくる患者さんの多くは、尿漏れやトイレが近いなど、排尿の問題を抱えていました。しかし、当時、尿失禁などは加齢によって起こるものという扱いで、病気と考えられておらず、医療の世界でも研究の対象にすらなっていなかったんです」。本間がこうした課題に取り組み始めた当初は、「東大で尿漏れの研究をするのか」という意見もあったという。しかし、問題を抱えて困っている患者さんが目の前にいるのに、放ってはおけない。本間は外来患者さんと向き合うなかで、しだいにこの問題にのめり込んでいった。

 

同科のスタッフとともに。本間の1週間は多忙だ。火曜と木曜、さらに水曜の午後が手術日。月曜と金曜の午前中は外来で、午後は教授会や会議が入る
同科のスタッフとともに。本間の1週間は多忙だ。火曜と木曜、さらに水曜の午後が手術日。月曜と金曜の午前中は外来で、午後は教授会や会議が入る。

 

人と同じ方向ばかり見ていたら、ときに医師として一番大切なものを見落としてしまうかもしれない。

2000年からは、間質性膀胱炎の治療を開始。強い痛みと頻尿を伴う間質性膀胱炎は、膀胱炎のように尿検査だけで診断できるものではなく、原因不明とされた。

「これも、ほぼ完全に放っておかれていた病気なんです」

本間は、間質性膀胱炎の研究会を立ち上げ、03年に赴任した日本赤十字社医療センターでは、膀胱水圧拡張術を先進医療に申請するなど、診療と研究を続けた。

「それまでの医学は相手にしてこなかったけれど、困っている患者さんがいる病気ときちんと向き合う。100人の医師のうち、たとえ99人が問題視しないテーマであったとしても、私1人くらい問題にする医師がいてもいいと思うんです。これがきっかけで光が当たるようになれば、それはある意味、医師としての『王道』といえるのかもしれません」

手術室のチームと。中央が手術用ロボットの「ダ・ヴィンチ」。「自分が執刀医でなくても手術室に入り、後輩をサポートすることがあります。手術中はあまり口出ししないようにしていますが……」と語る。
手術室のチームと。中央が手術用ロボットの「ダ・ヴィンチ」。「自分が執刀医でなくても手術室に入り、後輩をサポートすることがあります。手術中はあまり口出ししないようにしていますが……」と語る。

「泌尿器の分野は、実は最先端の医療技術がいち早く取り入れられてきた分野なんです」。例えば、内視鏡による診療を初めて行ったのは、1804年に内視鏡を開発したドイツの医師ボッツィニで、膀胱内を見ることが目的だった。近年では、胸腔、または腹腔の内視鏡下手術用ロボット「ダ・ヴィンチ(ダ・ヴィンチ外科手術システム)」を初めて臨床応用したのも泌尿器科だった。

「ダ・ヴィンチは、視野が大きくとれて、細かい作業ができるので、増え続ける前立腺がんの手術などに向いています。傷口が小さく出血量も少なくてすんで、後遺障害も出にくくなります」

膀胱がんに対してBCGを用いる免疫治療の歴史はすでに30年に及び、抗ウイルス作用の強いインターフェロンを固形がん(腎臓がん)に初めて使ったのも泌尿器科だった。

 

東京大学大学院医学系研究科免疫細胞治療学講座の特任教授・垣見和宏氏と意見を交換する本間。他科との連携もがん治療の現場では欠かせない。
東京大学大学院医学系研究科免疫細胞治療学講座の特任教授・垣見和宏氏と意見を交換する本間。他科との連携もがん治療の現場では欠かせない。

 

さらに泌尿器科は、がん免疫細胞治療の分野でも先鞭(せんべん)を付ける。東京大学医学部附属病院では、腎臓がんに対し、樹状細胞ワクチン療法と分子標的薬スニチニブを併用した臨床試験を09年に開始。14年には、その治療結果がアメリカのがん学会誌に掲載されるなど、手応えも十分に感じている。

「これまでのがん治療では、例えばAとBの治療法を比較した場合、Aを受けた患者さんのほうが長く生きたから、AがよくてBがダメだというような判断で治療法を採用してきました。まるで動物実験のように感じませんか。しかも効果の差が際どい場合にもAの方法を取り入れる。それでは殺伐とした個性無視の治療になってしまう。しかし、患者さん自身の細胞を使って、個々に合わせた治療を行う免疫細胞治療は違います。免疫細胞治療によって、殺伐としたがん治療の現場が、変わってくるかもしれません」

本間は、教授となった現在も週に2、3度は手術室に入り、長時間のオペにも挑む。「本間先生は、どんなときも妥協せず、強い指導力を発揮されます」「臨床の現場にいらっしゃるだけで心強い」「投稿前に教授の審査を通すのは論文の受理より手ごわい」と、後輩医師からの信頼も厚い。

本道を嫌う自分が大学病院で教授を務めている。そのことに対して本間は、「上下関係が嫌いで上から決めつけるようなことはしていないつもり。だけど、本当のところ、みんなはどう思っているのかな」と笑う。

「放っておかれている病気にも苦しんでいる患者さんがいる」という本間の切り開いた脇道が、今、多くの医師たちが目指す本道になっている。
(敬称略)

 

登山が趣味の本間。「日本百名山の制覇を目指していますが、王道の富士山が残っています(笑)」。上:77年夏、友人たちと福島県燧ケ岳に登った本間(左端)。右:鹿児島県屋久島にて、78年春。
登山が趣味の本間。「日本百名山の制覇を目指していますが、王道の富士山が残っています(笑)」。上:77年夏、友人たちと福島県燧ケ岳に登った本間(左端)。右:鹿児島県屋久島にて、78年春。

東京大学大学院 医学系研究科泌尿器外科
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1926年、皮膚学教室に開かれた泌尿器科学の講座が前身で、戦後すぐの46年には泌尿器科学教室が創設された。歴史ある同科では、「泌尿器科疾患に悩む患者さんに最善の医療を実践し、かつ、医療の先端を切り開く研究を行う」ことを目標としている。

●問い合わせ
東京大学大学院 医学系研究科・医学部
住所/東京都文京区本郷7-3-1
電話/03-3815-5411(附属病院代表)
HP/www.m.u-tokyo.ac.jp/

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