皮膚がんの一種「メラノーマ(悪性黒色腫)」の新たな治療薬として大きな効果をあげている、日本発の抗がん剤がある。それが、2013年に米FDA(米食品医薬局)の承認を得て、画期的な治療薬として高く注目されている「トラメチニブ」だ。日本国内でも早期の認可が期待されているが、この薬を見いだしたのがJT(日本たばこ産業)と京都府立医科大学の酒井敏行教授。
今回は、トラメチニブを発見するまでのプロセス、さらにはその効果について酒井教授にお話を伺う機会を得ることができたので、2回にわたり紹介しよう。
世界に貢献する日本発の分子標的薬「トラメチニブ」とは?
「メラノーマは皮膚がんの一種で死亡に至る割合が高く、イギリスでは若年男性のがん死亡率の2位に数えられるほど。発生頻度に人種差があり、白人に罹患者が多い一方で日本人には稀ながんと言われています」(酒井教授、以下同)
発生原因は詳しく解明されていないものの、皮膚の色と関係するメラニンを作る色素細胞であるメラノサイトやほくろの細胞ががん化するというもの。紫外線や外的刺激が関係すると言われている。日本人に少ないとはいえ、国内の患者数は約4000人(独立行政法人統計センター2015年)、2012年だと皮膚がん死亡者数の約4割はメラノーマによるもの(「がんの統計2013」公益財団法人がん研究振興財団)で、これまで有効な治療法はなかった。
そして、このメラノーマの治療で高い実績を誇るのが、酒井教授とJT医薬総合研究所が発見した分子標的薬トラメチニブ。分子標的薬とは、がんの発症や進展に深く関与する遺伝子を捉え、狙い撃ちをするよう設計された治療薬のことで、それゆえ副作用を抑えられ高い効果が期待できるという。従来の抗がん剤が正常な細胞も攻撃してしまい、副作用を招くのとは一線を画している。
「ダブラフェニブという治療薬にトラメチニブを併用した場合の奏功率(腫瘍の縮小が認められる患者の割合)は約75%、さらに約10%は腫瘍が完全に消失する完全奏功が認められ、副作用も低いことが、これまでの臨床データから実証されています。従来の抗がん剤の奏効率が約5%程度だったことと比べると、非常に高い有効性といえます」
RB遺伝子とRB再活性化スクリーニング
酒井教授がトラメチニブの発見にいたったプロセスだが、メラノーマのみならずほとんどのがんで、がんを抑制する「RB」と呼ばれる遺伝子が不活化(活動が止まった状態)していることに着目したのが発端だという。
「ほとんどのがんにおいてRB遺伝子が不活化の状態になっており、その割合は8割以上にものぼると推測されています。つまり、この遺伝子の異常が多くのがんの元凶のひとつだということです。RB遺伝子の過剰メチル化やRBタンパク質のリン酸化型など、不活化に陥る原因も研究を通じて明らかになり、そこで辿りついたのが、RB遺伝子を再び活性化させることによるがん治療でした」
酒井教授は、RB遺伝子を再活性化させる効果の高い薬剤を選別する「RB再活性化スクリーニング」という独自の新薬開発手法を考案し、RB遺伝子が不活化する要因のひとつである「MEK」の活性化を抑制する働きがトラメチニブにあることを発見。これによりRB遺伝子が働きを取り戻し、がんの増殖が低下、メラノーマに有効であることがわかったのだ。
新薬開発の発想の原点となった南方熊楠の「萃点(すいてん)」
RB遺伝子をベースに新薬研究に臨んだ酒井教授。その原点には、和歌山県出身で世界的な博物学者として知られる、南方熊楠が深く関わっているという。
「彼は幼少の頃から百科事典の原点ともいえる『和漢三才図会』を筆写するなど、類まれな才能と記憶力の持ち主ですが、実は私も和歌山県出身で、開業医だった祖父は晩年、熊楠の主治医を務めていました。そういった縁もあり興味があったのですが、なかでも惹かれたのは、『南方曼荼羅』に記されている、物事の流れが集まり、通過・交差する地点を意味する『萃点』という考え。あらゆる物事には核となるポイントがあるということです。私はこれに倣い、がんの発生にも核になるポイントがあるのではないかと考え、RB遺伝子に着目したことで、トラメチニブを見いだせたと考えています」
注目のがん治療薬の誕生に、日本有数の偉人の思想が関わっているというのもユニークな話ではないだろうか。次回は、さらに効果的なダブラフェニブとの併用について解説するとともに、酒井教授の今後の展開についてもお聞きしよう。
酒井敏行(さかい・としゆき)
1980年京都府立医科大学卒業、’80〜’82年大阪鉄道病院研修医、’82〜’86年京都府立医科大学大学院、’86〜’88年京都府庁衛生部保健予防課技師、’88〜’91年米国ハーバード医科大学へ留学(RBをクローニングしたDr.Thaddeus P.Dryja の研究室)、’91年京都府立医科大学公衆衛生学教室助手、’94年同講師、’96年同教授、2003年京都府立医科大学大学院医学研究科分子標的癌予防医学教授、現在に至る。発がん機構の研究から始め、現在では、がんの予防法、診断法、治療法の開発をすべて企業と共同で行っている。趣味は音楽と酒と雑談。(取材時現在)