繊細なメロディーと歌声、心に響く言葉を紡ぐ小椋佳さんが、胃がんと診断されたのは今から14年前、57歳のときだった。きっかけは、仕事で知り合った医師のすすめで受けた人間ドック。20歳からタバコは1日40本。食べることが大好きで、体重は80キロを超えていたから血糖値も高く、良い結果は期待していなかった。それでもがんとの診断は予想外だった。
人間ドックを受けてから間もなく、小椋さんは、「検査を受けてください」と言う妻からの電話をコンサート先の沖縄で受け取る。そこから東京の病院へ直行。さっそく検査が開始された。「1週間の検査を終えるとすぐ手術が待っていたので、胃がんと知っても悩む時間はありませんでした。気付いたら手術を終え、体中にチューブが付いていたという感じです」。
人間の命の計り知れないパワーと神秘を信じて
幸い初期のがんだったが、転移の危険性を見越して、胃の4分の3の他、迷走神経、胆嚢(たんのう)や副腎なども切除した。人気アーティストの病に、多くの取材陣が駆け付けた。「がんには死のイメージが付きまとう。でも、突然、理不尽な形で訪れるのが死だと思っていましたから、それほど動揺はしなかった」と小椋さん。そうした感性こそが、ある意味、創作活動の原動力とも言える。
同時に小椋さんが、命の神秘や力を実感する体験を経ていたことも、がんと冷静に対峙(たいじ)できた理由かもしれない。それを教えてくれたのは彼の二男の宏司さんだった。14歳で若年性脳梗塞になり、植物人間になりかけた。医師からは「治る見込みはない」と告げられた。当時43歳で、銀行員だった小椋さんは仕事が終わると毎日病室を訪れたが、回復の兆しは見えない。
「ところがある日、彼の耳元で『あなたが美しいのは』という曲を口ずさんでみたら、息子が一緒に歌い始めたのです」。記憶も言語も失ったはずの息子が、今、自分と一緒に言葉を発し、メロディーを追いかけている。奇跡としか言いようがなかった。息子の命が生きようとしている……。涙がとめどなく溢(あふ)れた。