がんを明るく生きる

再発にくじけず、明るく今していることを楽しむ―荒井美奈子さん

2017年10月25日

がん患者さんがご家族や医療従事者と心を1つに『第九』を歌い上げることは、がんに立ち向かう力と励みになるに違いない。こうした思いから発案された「がん患者さんが歌う春の第九」(主催=公益財団法人がん研究会/がん研有明病院/がん研有明友の会/公益財団法人日本フィルハーモニー交響楽団/NPO法人TeamNET)は、2017年4月1日、東京オペラシティコンサートホールで開催された。合唱団員は公募で集められ、荒井美奈子さんは、親しい看護師のすすめで応募した。

荒井 美奈子(あらい みなこ)さん
神奈川県在住。短大卒業後、商社に就職し、25歳で2歳年上の孝典さんと結婚した。2002年、乳がんと診断され、翌年手術を受ける。11年には肝臓への転移が見つかり、肝臓の約2分の1を摘出した。翌年、肺への転移が確認されたため、現在、ホルモン療法、免疫細胞治療、漢方療法などを続けている。「がん患者さんが歌う春の第九」で、美奈子さんはソプラノを担当し、約1年間、週1回のペースで行われた練習に1度も休むことなく参加した。(取材時現在)

 

2017年春、チャリティコンサートに初参加して『第九』を歌い上げた

2017年4月1日は、荒井美奈子さんにとって記念すべき日となった。世界的指揮者である山田和樹氏と日本フィルハーモニー交響楽団のもと、プロのソリストたちと一緒にベートーヴェンの『第九』を歌ったのだ。舞台は東京オペラシティのコンサートホール。約140名の合唱メンバーのうち約80名は、美奈子さんのようにがんを治療中の患者さんやあるいはがん経験者だ。

緊張の中でも歌う喜びをかみしめながら、美奈子さんは練習を始めた1年前を振り返る。再発した乳がんの治療に必死だった自分がまさかこんな晴れ舞台に立てるなんて――。「もしかすると1年後には病状が悪化しているかも」。そんな不安がよぎったこともあった。だからこそ、体調よくコンサート当日を迎えることをできた喜びは大きい。初めて感じるこの上ない晴れやかさ。煌(きら)めくような時間の流れを惜しむ美奈子さんをよそに、コンサートは終盤へと向かう。

そして無事終了――。やり切ったという満足感と同時に、これからの目的がなくなってしまった寂しさに襲われたが、その寂しさを吹き消すように、いつまでも鳴りやまない温かい拍手が美奈子さんを包んだ。

 

上:コンサートに向けて一緒にレッスンに励んだ仲間たちと(下は練習風景)。左:東京オペラシティでは、コンサートの前日と当日、合わせて2回のリハーサルを行った。本番を前に緊張した面持ちの美奈子さん。

 

再発予防には医師任せにせず自ら行動を起こすことも大切

健康には自信のあった美奈子さんが、乳がんを宣告されたのは2002年、38歳のとき。健康診断で再検査となり、初期とはいえ、「悪性」との診断には、本人も夫の孝典さんも激しく動揺した。悲しみは美奈子さんの両親まで巻き込み、母親は「遺伝的ながんかもしれない。本当にごめんなさい」と手紙で詫び、父親は「そのがんを俺にくれ」といって泣いた。

「そんな両親の姿に、私がしっかりしなくてはと思いました」

幸いがんは手術で切除することができた。放射線治療、5年間のホルモン療法を終え、ひと安心というところで肝臓に小さな血管腫が見つかったが、「がん化する恐れはない」という医師の診断を信じて経過観察することにした。

しかし、3年後、血管腫は8センチにもなっていた。乳がんの転移再発だった。

「結局、腹部を大きく切ることになりました。セカンドオピニオンを受ければよかったと、どんなに後悔したことか……。そのときの教訓をぜひ、私と同じように治療を続けている方に伝えたい。医師から再発でないといわれれば信じたい。でも、がんという病気は複雑ですから、医師にも想像できないことは起こるのです。そして、すべては自分に降りかかってくる。怖がらず、『おかしいな』と思ったら行動を起こすべきです」

がんとの闘いはさらに続く。手術の翌年、肺に多発の転移が見つかったのだ。腫瘍が散らばっているために手術はできず、現在までホルモン療法を続けている。また、孝典さんの後押しもあり、標準治療以外の治療も受けることにした。

「肺に転移したときには、さすがに私は死ぬのかなぁと思いました。でも、2017年1月のCT検査で肺の腫瘍が小さくなり、3月には腫瘍マーカーが正常になりました。

免疫細胞治療や漢方療法など、様々な治療法を積極的に取り入れていることが相乗効果を生んでいると思うんですが、『第九』の練習も励みになっていたのではないかしら」と美奈子さんは笑う。

 

免疫細胞治療を受けるクリニックで看護師長を務める伊藤一美さんとは何でも話し合える間柄。「こんなに親しくしていただいて本当にありがたいと思っています」と美奈子さん。『第九』も一緒に歌った。

 

負けない気持ちになればすてきな出会いはある

ここ2年の間には、鎖骨や肺門のリンパへの転移も見つかり、そのつど治療してきたが、くじけそうになることもあった。「でも弱いところを出したら、がんに負けそうで怖いんです」と笑顔を絶やさない美奈子さん。それも孝典さんの支えがあってのことと感謝している。どんなときにも傍らにいて「1人じゃないんだ」と勇気づけてくれる。

現在、美奈子さんは孝典さんが経営する会社の経理事務を担当。時間を作って積極的にスキーやテニス、友人たちとの交流を楽しみ、それが元気の元にもなっている。

「がんになってよかったとは思えないけれど、がんになってもすてきな出会いはあるし、がんになったからこそ出会えたものもあります」

『第九』もその1つだ。

「年末の『第九』のコンサートに向けて、日本フィルハーモニー協会合唱団が合唱団員を公募しているので、実はそれに参加しようかと思案中なんです」

次なる目標に向かって、美奈子さんは今日も明るく生きる。

 

楽しいことをするのではなく、今していることを楽しむ——。『遊戯三昧』という禅の言葉が支えです」と美奈子さん。夫の孝典さんとはテニスやスキーを楽しむ大学のサークルで知り合った。美奈子さんの一番の理解者であり、最も頼りになる人。「カラオケさえ敬遠していた家内が、人前で『第九』を歌うなんて信じられない」と笑う。

 

スキーシーズンになると2人で出かける。孝典さんは準指導員、美奈子さんは1級の腕前。「がんとの共存には体力も大切」とスポーツを楽しんでいる。

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