2017年春、チャリティコンサートに初参加して『第九』を歌い上げた
2017年4月1日は、荒井美奈子さんにとって記念すべき日となった。世界的指揮者である山田和樹氏と日本フィルハーモニー交響楽団のもと、プロのソリストたちと一緒にベートーヴェンの『第九』を歌ったのだ。舞台は東京オペラシティのコンサートホール。約140名の合唱メンバーのうち約80名は、美奈子さんのようにがんを治療中の患者さんやあるいはがん経験者だ。
緊張の中でも歌う喜びをかみしめながら、美奈子さんは練習を始めた1年前を振り返る。再発した乳がんの治療に必死だった自分がまさかこんな晴れ舞台に立てるなんて――。「もしかすると1年後には病状が悪化しているかも」。そんな不安がよぎったこともあった。だからこそ、体調よくコンサート当日を迎えることをできた喜びは大きい。初めて感じるこの上ない晴れやかさ。煌(きら)めくような時間の流れを惜しむ美奈子さんをよそに、コンサートは終盤へと向かう。
そして無事終了――。やり切ったという満足感と同時に、これからの目的がなくなってしまった寂しさに襲われたが、その寂しさを吹き消すように、いつまでも鳴りやまない温かい拍手が美奈子さんを包んだ。
再発予防には医師任せにせず自ら行動を起こすことも大切
健康には自信のあった美奈子さんが、乳がんを宣告されたのは2002年、38歳のとき。健康診断で再検査となり、初期とはいえ、「悪性」との診断には、本人も夫の孝典さんも激しく動揺した。悲しみは美奈子さんの両親まで巻き込み、母親は「遺伝的ながんかもしれない。本当にごめんなさい」と手紙で詫び、父親は「そのがんを俺にくれ」といって泣いた。
「そんな両親の姿に、私がしっかりしなくてはと思いました」
幸いがんは手術で切除することができた。放射線治療、5年間のホルモン療法を終え、ひと安心というところで肝臓に小さな血管腫が見つかったが、「がん化する恐れはない」という医師の診断を信じて経過観察することにした。
しかし、3年後、血管腫は8センチにもなっていた。乳がんの転移再発だった。
「結局、腹部を大きく切ることになりました。セカンドオピニオンを受ければよかったと、どんなに後悔したことか……。そのときの教訓をぜひ、私と同じように治療を続けている方に伝えたい。医師から再発でないといわれれば信じたい。でも、がんという病気は複雑ですから、医師にも想像できないことは起こるのです。そして、すべては自分に降りかかってくる。怖がらず、『おかしいな』と思ったら行動を起こすべきです」
がんとの闘いはさらに続く。手術の翌年、肺に多発の転移が見つかったのだ。腫瘍が散らばっているために手術はできず、現在までホルモン療法を続けている。また、孝典さんの後押しもあり、標準治療以外の治療も受けることにした。
「肺に転移したときには、さすがに私は死ぬのかなぁと思いました。でも、2017年1月のCT検査で肺の腫瘍が小さくなり、3月には腫瘍マーカーが正常になりました。
免疫細胞治療や漢方療法など、様々な治療法を積極的に取り入れていることが相乗効果を生んでいると思うんですが、『第九』の練習も励みになっていたのではないかしら」と美奈子さんは笑う。
負けない気持ちになればすてきな出会いはある
ここ2年の間には、鎖骨や肺門のリンパへの転移も見つかり、そのつど治療してきたが、くじけそうになることもあった。「でも弱いところを出したら、がんに負けそうで怖いんです」と笑顔を絶やさない美奈子さん。それも孝典さんの支えがあってのことと感謝している。どんなときにも傍らにいて「1人じゃないんだ」と勇気づけてくれる。
現在、美奈子さんは孝典さんが経営する会社の経理事務を担当。時間を作って積極的にスキーやテニス、友人たちとの交流を楽しみ、それが元気の元にもなっている。
「がんになってよかったとは思えないけれど、がんになってもすてきな出会いはあるし、がんになったからこそ出会えたものもあります」
『第九』もその1つだ。
「年末の『第九』のコンサートに向けて、日本フィルハーモニー協会合唱団が合唱団員を公募しているので、実はそれに参加しようかと思案中なんです」
次なる目標に向かって、美奈子さんは今日も明るく生きる。