充実した人生を送るためにはどうすべきか。がんをきっかけに考えるようになった。
渡辺さんが前立腺がんを宣告されたのは2015年12月24日のこと。年末を迎え、あわただしくも浮かれる人々の中、「生きた心地がせず、自分だけが取り残されたようだった」と振り返る。
高校からラグビーを始め、体育教師を目指して進学した筑波大学ではラガーマンとして活躍した。その後、武蔵工業大学(現東京都市大学)からラグビー指導者として請われ、大学教員としてスポーツ学を教えながら、ラグビー部監督としてチームを6度の優勝に導いた実績をもつ。
51歳で監督を退いたが、その後も日本ラグビー協会の理事として、日本のラグビーの振興に尽力している。そんな順風満帆な人生を歩んできた渡辺さんにとって、がん宣告は、まさに青天の霹靂(へきれき)だった。しかし、2年が過ぎた今、がんは完治していないものの「順調過ぎて、神様が僕に『油断をするな』と釘を刺してくれたのかもしれない」と笑い飛ばせるようになった。
ポジティブに考えて行動する。それが勝利の法則
体の異変に気付いたのは、日課のジョギングの最中。突然激しい痛みが背中を襲い、走れなくなった。
健康には自信があったため、「疲労骨折かな」と軽い気持ちでいた。だが、知り合いの医師に相談し、MRI検査を行ったところ、前立腺に腫瘍が見つかった。翌日のクリスマス・イブには、詳細な検査をするため、当時ラグビー日本代表のチームドクターだった大学病院の医師を訪ねた。
結果は「悪性」。腫瘍マーカーは前立腺がんの可能性を示す4.0ng/mlをはるかに越える2400ng/ml。すでに背骨や骨盤に転移して、手術のできない状態だった。
「あとどれくらい生きられるのだろう」。
詳しい診断結果は正月明けにもち越された。自身ががんであることを妻と娘に打ち明けると、2人とも激しく動揺して泣いたが、それでも翌日には「前向きに生きよう」と積極的に動き始めたという。薬学部に通う娘が病気について調べ、「今や前立腺がんはそれほど怖い病気ではない」と、励ましてくれたことが大きかった。
そして2016年1月、主治医から告げられた余命は、2年から5年だった。「あと3カ月ぐらいしか生きられないのでは……」と悲観していただけに、「そんなに生きられるのかと一瞬喜んで、後で家族に叱られた」と苦笑する。それだけの時間があれば、ワールドカップやオリンピックに力を注ぎ、「65歳の定年まで働いて、社会的役目を果たすことができるかもしれない」と思えたからだ。
翌月からは、ホルモン療法と抗がん剤投与を並行する治療が始まった。髪は抜け落ち、味覚も食欲もなくなったが、仕事は休まずに続けた。「抗がん治療がこんなにもきついとは…。
「学生たちは、容貌が激変した私を気づかい、『イメージを変えたんですか』って、いつも通りに接してくれまたことが嬉しかったですね」。
幸いにも腫瘍は小さくなり、10月から2カ月間、放射線治療も行った。さらに転移を防ぐため、自分の免疫細胞を培養、活性化させて投与する免疫細胞治療も取り入れている。現在、腫瘍マーカーの値は下がり、体調も良好だ。
「悲観すると免疫力が落ちるので、何事もポジティブに考えるようにしています。上昇気流に乗るといいスパイラルを描きますが、1度落ちると坂道を転げ落ちるようにあっという間。それは長年、ラグビーを通して学びました。病気もすべて同じだと思います」
心には、試合だけでなく命も動かす力があると信じている
料理が得意で、家族の弁当と夕食を毎日作るという渡辺さんは、「食べる物も大切」と食生活を見直して、鶏肉や魚、野菜を多く摂る食事に変えた。渡辺さんは、がんになって悪いことばかりではなかったと話す。
「妻も娘も今まで以上に団欒(だんらん)を大事にしようとしてくれて、家族の絆が今まで以上に強まりました」
暗い気持ちで過ごすのはもったいないと、これまで以上に明るい気持ちで仕事にも打ち込んでいる。
「ラグビーでは、ボールの転び方1つで試合の流れが変わるし、心が勝敗を決めることもある。それは人生にも通じます。やれるだけのことはやって、それから後は運命に委ねようと思います」
誰にとっても命は永遠ではない。だから一瞬一瞬を大切に生きる。1日の重み、人生の尊さもがんが教えてくれた。
渡辺一郎さんの今
渡辺さんは、スポーツコーチングなど、ラグビー人生で得た豊富な経験とデータからスポーツを科学的に分析し、学問として社会に生かしてきた。大学の主任教授となった今も、ラグビーだけでなく様々なスポーツを通して学生たちを指導している。この日はバドミントンの授業。その熱心さで学生からの信頼も厚い。「多忙過ぎて免疫力を落とすことは避けようと思っていますが、やるべきことはきちんとやらないと」。社会的役割を果たし、よりよい人材を育てる目標もまた、渡辺さんの生きる原動力となっている。