2013年、30歳の誕生日を目前に告げられた病名は「悪性リンパ腫」だった。8時間に及ぶ手術で腸の一部を切除し、5カ月にわたる抗がん剤治療を終えて、翌年には練習を再開。そして2016年、元旦開催のニューイヤー駅伝で、陸上競技選手としてレースへの復帰を果たした。「僕ががんばることで、1人でも多くの人に勇気を与えられたら」。この言葉には、がんを乗り越えた糟谷さんの不屈の精神とやさしさが宿る——。
言葉にできない違和感ががん発見のきっかけだった
駒沢大学時代には箱根駅伝で優勝を果たし、卒業後に所属したトヨタ紡織では1年目からレギュラーに抜擢され、順調なマラソン人生を歩んでいた。しかし、2013年春から、言葉に出来ないような違和感を体に覚える。自覚症状はほとんどなかったが、体内で異常が起きていると確信した。コンマ1秒を競い、常に自分の体と向き合っているアスリートの直感だった。
近所のクリニックで血液検査を受けたものの異常は認められず、「精神的なものでしょう」と薬を処方された。だが、体だけでなくメンタル面のトレーニングも十分に行っていた糟谷さんにとって、それは納得のいかない結果だった。
「精密検査のできる病院を紹介してもらいましたが、そこでの結果も同じ。それでも自分の直感を信じ、再度お願いして全身をくまなく調べてもらうことにしました。」
直感が当たり、大腸の内視鏡検査で、医師から腸内に腫瘍があると告げられた。悪性リンパ腫のステージⅡ。「30歳でがんになるなんて思ってもいませんでしたから、すぐにはがんと認識できませんでした」と当時を振り返る。まず浮かんだのは両親のことだった。ちょうど親しかった親戚をがんで失ったばかりで、闘病生活の過酷さや遺族の悲しみを見てきただけに、両親のショックを思うと胸が痛んだ。がん告知よりも、それを親に伝えることのほうが怖かった。
結局、病気のことを両親に告げたのは入院する直前。予想通り2人は動揺し、会話にならなかった。友人や仲間たちの反応も同じだった。驚きと悲しみで言葉を失い、大の男が涙を流した。これ以上みんなを悲しませたり、心配をかけたりしてはいけない。冷静さを失わず、いつも明るく元気に振る舞おうと心に決めた。
失ったものは忘れて今あるものを大切に生きる
「絶対に競技選手として復帰する」とも決めていた。医師からは「復帰は難しい」といわれていたが、糟谷さんの決意は揺るがなかった。大きな励ましとなったのは、乳がんを克服して、モスクワ世界陸上女子400メートルに出場したジャマイカのノブレーン・ウィリアムズ=ミルズ選手。彼女の雄姿を病院のベッドの上で見ていた糟谷さんは、「自分も早く競技に戻りたい」と切に願った。
2014年、復帰に向けての練習は30分のジョギングから。しかし、治療によってダメージを受けた体にはそれさえもつらかった。体のあちこちで機能低下が起こり、これまで蓄積してきた経験やデータが意味をなさないことを痛感した。化学療法の副作用などよりも、これを自覚したことのほうがつらかったというが、糟谷さんに落ち込んでいる時間はなかった。
「大切なのは発想の転換。足のケガで走れなかったときは上半身の強化に励みました。あのときのことを思い出そう。できないことに悲観するのではなく、今できることに目を向けようと思いました」
以後、フォームの改善と持続スピードの強化を図り、少しずつだが、以前の走りを取り戻しつつある。本来なら無理はできない体だが、無理をしなければ結果を残せない世界。それでも糟谷さんは、「これまでの陸上人生で、今が一番努力できているし、楽しい。この人生でよかったと思います」と笑顔を見せる。
世界陸上やオリンピックを見据えて、まず目指すのは2017年2月開催予定の東京マラソン。満足できる最高の結果を残すために、糟谷さんは今日も全力で走り続ける。