がんを明るく生きる

見方しだいでマイナスもプラスに―糟谷 悟(陸上競技選手)

2017年2月22日

「食欲がなくなるほどの過酷な練習を乗り越えてきた。だから抗がん剤の副作用もそれほどつらくはありませんでした」と語る糟谷さん。「がんになっても陸上をやめようとは思わなかった。そう思った瞬間に自分がダメになるような気がしたから」とも。

糟谷 悟(かすや さとる)
1983年、愛知県生まれ。中学3年のときに、県の陸上競技大会(3000メートル)に出場。中京大中京高校陸上部の監督の目に止まり、本格的に陸上を始める。高校を卒業後は駒沢大学へ進学し、箱根駅伝に3年連続出場。2度の優勝に貢献し、区間賞を受賞。2006年にトヨタ紡織に入社。2012年大阪ハーフマラソンで2位に入賞するなど、実績を上げていた最中、2013年、悪性リンパ腫を発症した。腸の一部を切除後、抗がん剤治療を受け、2014年のニューイヤー駅伝の手伝いを皮切りに練習を再開。2016年のニューイヤー駅伝、東京マラソンに出場。不屈の走りで、がんと闘う人々に勇気を与えた。(取材時現在)

2013年、30歳の誕生日を目前に告げられた病名は「悪性リンパ腫」だった。8時間に及ぶ手術で腸の一部を切除し、5カ月にわたる抗がん剤治療を終えて、翌年には練習を再開。そして2016年、元旦開催のニューイヤー駅伝で、陸上競技選手としてレースへの復帰を果たした。「僕ががんばることで、1人でも多くの人に勇気を与えられたら」。この言葉には、がんを乗り越えた糟谷さんの不屈の精神とやさしさが宿る——。

 

言葉にできない違和感ががん発見のきっかけだった

駒沢大学時代には箱根駅伝で優勝を果たし、卒業後に所属したトヨタ紡織では1年目からレギュラーに抜擢され、順調なマラソン人生を歩んでいた。しかし、2013年春から、言葉に出来ないような違和感を体に覚える。自覚症状はほとんどなかったが、体内で異常が起きていると確信した。コンマ1秒を競い、常に自分の体と向き合っているアスリートの直感だった。

近所のクリニックで血液検査を受けたものの異常は認められず、「精神的なものでしょう」と薬を処方された。だが、体だけでなくメンタル面のトレーニングも十分に行っていた糟谷さんにとって、それは納得のいかない結果だった。

「精密検査のできる病院を紹介してもらいましたが、そこでの結果も同じ。それでも自分の直感を信じ、再度お願いして全身をくまなく調べてもらうことにしました。」

直感が当たり、大腸の内視鏡検査で、医師から腸内に腫瘍があると告げられた。悪性リンパ腫のステージⅡ。「30歳でがんになるなんて思ってもいませんでしたから、すぐにはがんと認識できませんでした」と当時を振り返る。まず浮かんだのは両親のことだった。ちょうど親しかった親戚をがんで失ったばかりで、闘病生活の過酷さや遺族の悲しみを見てきただけに、両親のショックを思うと胸が痛んだ。がん告知よりも、それを親に伝えることのほうが怖かった。

結局、病気のことを両親に告げたのは入院する直前。予想通り2人は動揺し、会話にならなかった。友人や仲間たちの反応も同じだった。驚きと悲しみで言葉を失い、大の男が涙を流した。これ以上みんなを悲しませたり、心配をかけたりしてはいけない。冷静さを失わず、いつも明るく元気に振る舞おうと心に決めた。

 

2013年、抗がん剤治療を受ける糟谷さん。このとき力となったのが、テレビに映るジャマイカのノブレーン・ウィリアムズ=ミルズ選手の姿だった。

 

失ったものは忘れて今あるものを大切に生きる

発想の転換でがんを乗り越えられました。今は、病気をしたおかげで、いい方向へ、人生の舵取りができたと思っています。

「絶対に競技選手として復帰する」とも決めていた。医師からは「復帰は難しい」といわれていたが、糟谷さんの決意は揺るがなかった。大きな励ましとなったのは、乳がんを克服して、モスクワ世界陸上女子400メートルに出場したジャマイカのノブレーン・ウィリアムズ=ミルズ選手。彼女の雄姿を病院のベッドの上で見ていた糟谷さんは、「自分も早く競技に戻りたい」と切に願った。

2014年、復帰に向けての練習は30分のジョギングから。しかし、治療によってダメージを受けた体にはそれさえもつらかった。体のあちこちで機能低下が起こり、これまで蓄積してきた経験やデータが意味をなさないことを痛感した。化学療法の副作用などよりも、これを自覚したことのほうがつらかったというが、糟谷さんに落ち込んでいる時間はなかった。

「大切なのは発想の転換。足のケガで走れなかったときは上半身の強化に励みました。あのときのことを思い出そう。できないことに悲観するのではなく、今できることに目を向けようと思いました」

以後、フォームの改善と持続スピードの強化を図り、少しずつだが、以前の走りを取り戻しつつある。本来なら無理はできない体だが、無理をしなければ結果を残せない世界。それでも糟谷さんは、「これまでの陸上人生で、今が一番努力できているし、楽しい。この人生でよかったと思います」と笑顔を見せる。

世界陸上やオリンピックを見据えて、まず目指すのは2017年2月開催予定の東京マラソン。満足できる最高の結果を残すために、糟谷さんは今日も全力で走り続ける。

 

(左)区間賞を2回受賞し、優勝に貢献した箱根駅伝だが、つらい思い出もあるという。4年生のとき、糟谷さんは脱水症状に陥り、連覇を逃してしまったのだ。しかし、その悔しさがバネになって、今日の糟谷さんがある。(右)中学3年生の県大会で3000メートルに出場したときの糟谷さん。当時は陸上に興味はなく、バスケットボールに夢中だった。マイケル・ジョーダンに憧れて、頭を剃ったこともあったという。

糟谷 悟さんの今

現在は、目標の大会へ向けて、トレーニングに集中する毎日だが、アスリートとして講演会などに呼ばれることもある。2016年の7月には、岩手県でJASA(公益財団法人日本体育協会)主催の「スポーツこころのプロジェクト」に参加し、「夢の教室」の先生を務めた。「大学時代の挫折や病気から、どのようにして立ち上がり、目標や夢を達成したか。僕の経験が少しでも勇気を与えられたらうれしい」。糟谷さんの眼差しは、競技以外にも向けられている。

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