がんを明るく生きる

百歳まで生きて最年長記録をつくる―浅野史郎(神奈川大学教授、前宮城県知事)

2014年1月10日

運命に抗しても仕方ない。病気を良しとは思わないが得がたい体験ができると、病を前向きに捉えたい。

 

骨髄移植は闘病生活のスタート地点

今年4月には、これまで2週間に1度だった検査が、3週間に1度に変わった。
2013年4月には、これまで2週間に1度だった検査が、3週間に1度に変わった。

2009年6月、東京大学医科学研究所附属病院に入院。すぐに抗がん剤治療が始まった。
「ただ、私の場合、抗がん剤と相性がよかったのか、吐き気や食欲不振も二日酔い程度で済みました」
その後、無菌室生活を経て、国立がん研究センター中央病院で骨髄移植。経過は順調で、2010年2月3日、約8カ月ぶりで自宅へ戻った。
しかし、担当の田野崎隆二先生は言った。「退院は、マラソンに例えれば10㎞地点ですよ」と。
「改めて、この病気はこれからが長い。心して闘うべき特殊な病気なのだと実感しました」

実際、GVHD(骨髄移植に伴う合併症)で2回入院。さらに、ステロイドの服用による免疫力低下から膀胱炎を発症し、七転八倒の苦しみも味わった。一方で、奥さんである光子さんの愛情あふれる制約もある。

「私の場合、風邪をひくのがいちばん恐い。ですから妻は、『2、3時間前に作った料理は食べちゃダメ』『電車に乗っちゃダメ』『人がたくさんいるところで食事をしてはダメ』等々、とにかく私を管理する。それで、どれだけ喧嘩をしたことか。『闘病期間だってオレの人生だ』と私は主張するのですが、それでも妻は動じません。ダメダメおばさんぶりは、今も健在です」と、感謝をこめて笑う。
現在、骨髄移植から4年弱。35㎞地点をようやく過ぎた。

 

神様から与えられた使命をまっとうする。それが私の務め

「今こうして元気でいる。『浅野さんは還暦ATLの星です』と言われ、新しいミッションを与えられたことを実感します。病気になって、良かったとはさすがに思いません。ただ、少ない確率で、神様から選ばれてATLを発症したのだとすれば、与えられた使命をまっとうするのが、私の務めだと思います」
ともに病と戦う多くの人々に勇気を与えたい。「信頼できる医師を持とう、と言いたい」と浅野さん。
「ただし、信頼には相互性がある。信頼できる医師を持つということは、自分も信頼される患者になるということ。治療について分からないことは質問し、理解しようと努める。質問するときも事前に要点を整理して、忙しい主治医の手間を極力減らすようにする。患者にもできることはあるのです」
現在の目標は、「死なないこと」。
「百歳まで生きて、骨髄移植した人間の最高齢記録を樹立したい」
この春には神奈川大学の教授として、浅野さんの挑戦が始まった。

(左)「改革派知事」として知られた宮城県知事時代。3期12年務めた。 (上右)幼少期の浅野さん。「一言でいうならやんちゃ坊主」と振り返る。 (上左)1972年(昭和47)に在外研究員として米国イリノイ大学大学院に留学。当時24 歳。
(左)「改革派知事」として知られた宮城県知事時代。3期12年務めた。
(上右)幼少期の浅野さん。「一言でいうならやんちゃ坊主」と振り返る。
(上左)1972年(昭和47)に在外研究員として米国イリノイ大学大学院に留学。当時24 歳。
浅野史郎さんの今
宮城県知事時代は「ジョギング知事」と呼ばれていたが、筋力が弱っている現在は散歩が主流。筋肉が戻ってきたら、ジョギングに移行し、ランニングやレースにもチャレンジしたいと考えている。また、厚生省障害福祉課長時代に、「障害福祉の仕事はライフワーク」と思い定めたことの延長線上で、今は神奈川大学を「障害を持った学生に対し、いちばんいい大学にしよう」という目標を心に秘めている。
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