1949年、岐阜県生まれ。74年にニューヨークへ渡り、トランペッターとして数々の超一流のジャズメンたちと共演。自身のソロをフューチャーしたアルバム「マチート・アンド・ヒズ・サルサ・ビッグ・バンド」は84年度グラミー賞に輝いた。88年には交通事故で唇を損傷、96年には扁桃がんを罹患するなど、トランペッターとして致命的な傷害を受けた。しかし、不撓不屈の挑戦を続け、音も出せない状態から、演奏活動を再開できるまでになる。今も、世界を舞台に活躍中。(取材時現在)
「物事をポジティブに考えることが大切なんです。それが免疫の力を高め、がん細胞と戦ってくれるナチュラルキラー細胞を活性化させる。僕は、治ってトランペットを吹くことしか考えていなかったのがよかったんだと思います」と大野さんは語る。
扁桃がんのステージⅣ生存率50%でも仕事復帰を考えた
ジャズ界の名伯楽とされるアート・ブレーキーの誘いを受け、24歳でニューヨークへ渡った大野俊三さんは、大物ジャズメンと共演しながら、本場で活躍を続けた。1983年と88年にグラミー賞を獲得。誰が見ても「順風満帆のジャズメン人生」だった。その大野さんを病魔が襲ったのは、1995年。46歳だった。
「日本ツアーの真っ最中に、朝起きて鏡を見たら、ノドの右側がポッコリ腫れているんです。なんだろうと思って触ってみても、痛くもかゆくもない。たまたま知人が『僕も昔、唾液腺が詰まってそんな風になった。抗生物質を飲んだら治ったから、医者から抗生物質をもらってきてやるよ』と言ってくれたんです。ツアー中、その抗生物質を10日間飲みました」
しかし、腫れは引かない。ニューヨークに戻って、ホームドクターに「耳鼻咽喉科で精密検査を受けたほうがいい」と言われ、病理検査を受けました。
「結果は、扁桃がんのステージⅣ。進行性の末期がんでした。5年後の生存率は50%。医師はすぐに入院・手術と言いましたけれど、その段階では発がん元が特定できていなかったので、手術する気になりませんでした」
10人目のドクターが発がん元をやっとみつけてくれた
医者に行く前に、徹底的に勉強した。アメリカ人の考え方に倣って、納得できる診断と治療法を得ようと、第2オピニオン、第3オピニオンを求めた。
「発がん元が特定できないと、がんに冒されていない健康な部分まで切り取らなければならない。そうしたら、唾液も出なくなる危険性もあり、トランペットが吹けなくなってしまう。医者に怒られても、納得するまで話を聞きました。自分のことは自分で守らなければいけないと思いました」
発がん元を見つけ、納得できる手術方法を示してくれたのは、10人目のドクターだった。「がんに冒されていない左側の唾液腺は残せる。抗がん剤治療もしなくていい」と言う医師に、大野さんは命を預けることにした。