がんを明るく生きる

人それぞれに、生きる意味は違う―小橋建太(元プロレスラー)

2014年9月30日

「 先生は『腎臓がんになって、復帰をしたスポーツ選手はいない』とおっしゃいましたが、やはり、自分が自分らしく生きられる場所に戻りたい。だから、前例のない道を自分が切り開いていこう。僕のモットーは『自分が後悔しないように生きること』。そう生きたいと思いました」と、レスラー復帰の経緯を語った。
「 先生は『腎臓がんになって、復帰をしたスポーツ選手はいない』とおっしゃいましたが、やはり、自分が自分らしく生きられる場所に戻りたい。だから、前例のない道を自分が切り開いていこう。僕のモットーは『自分が後悔しないように生きること』。そう生きたいと思いました」と、レスラー復帰の経緯を語った。

小橋建太(こばし けんた)

1967年3月27日、京都府福知山市生まれ。京セラでの社会人生活を経て、87年に全日本プロレスに入団。翌88年2月26日にデビュー。三冠ヘビー級王者をはじめ、アジアタッグ、世界タッグなど、6個のタイトルを獲得した。2000年にはプロレスリング・ノアに移籍し、GHCヘビー級王座を奪取。13度の防衛に成功して、「絶対王者」と呼ばれるように。06年、腎臓がんが発覚し、手術をする。翌年復帰するも、その後もケガなどで欠場を余儀なくされ、13年5月11日に現役を引退。現在は、がんについての講演会なども積極的に行う。著書に『自伝 小橋建太 悔いは、ない』(13年/ベースボールマガジン社)がある。(取材時現在)

 

 

 

 

 

 

 

 

第一線で活躍中、定期的な健康診断で腎臓がんが発覚した

21歳のとき、ジャイアント馬場さん率いる全日本プロレスから、レスラーとしてデビュー。以来、2013年5月にケガで引退するまで、25年間第一線で戦い続けてきた小橋建太さんは、正面から相手に挑んでいくファイトスタイルと、真っ直ぐなハートで、多くのプロレスファンを魅了してきた。

その小橋さんに、「腎臓がん」という挑戦状が叩きつけられたのは、2006年、39歳のときだった。

「毎年行っている定期健康診断を受けたら、『腎臓を再検査してください』と言われたんです」

近くの病院で再検査を受けたら腎臓がんと判明。「ずっと健康だったので、聞いたときは『えっ?』という感じでした」。第2、第3オピニオンを求めたがどこも答えは同じだった。

 

「生きていれば、何でもできる」という主治医の一言が手術を決意させた

「『死んじゃうのかな』と思いました。『がん=死』というイメージがありましたからね。でも、どうせ死んでしまうんだったら、試合に出て、最後まで『プロレスラー小橋建太』でいたいと思ったんです」

告知を受けた1カ月後には、脳梗塞で倒れた高山善廣選手の復帰戦への出場を控えていた。高山選手とは同い年。仲間の復帰戦にかける思いは強かった。

「『試合が終わってから手術をします』と医者に言ったら、どこの病院でも『何を言っているんだ』と怒られましたね」

腎臓は普段、膜に覆われており破裂することはない。しかし、激しいプロレスの試合中にその膜が破れて、がん細胞が飛び散る危険性があるからだ。主治医である横浜市立大学附属病院の中井川昇先生も、復帰には否定的だった。

「私は、小橋さんをプロレスラーに戻すためではなく、生きてもらうために手術をします。生きていれば、プロレスじゃなくても何でもできます。まずは生きましょう」

先生の言葉が胸に響いた。小橋さんは手術を決意した。2006年7月6日、鍛えぬかれた筋肉を避け、へその下10センチくらいを切る腹腔鏡の手術法が選ばれた。

1〜2歳の頃、仲良しの3歳上の兄と。小橋家の次男として京都府福知山市で育った。
1〜2歳の頃、仲良しの3歳上の兄と。小橋家の次男として京都府福知山市で育った。
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