クローズアップ がんと闘う

外科の領域を超えて病理学をベースにがんの根治に挑む―森正樹(大阪大学医学部附属病院消化器外科学教授・診療科長)

消化器外科医としてまた、「がん幹細胞」研究の第一人者として日本の医学界をリードする森。
数々の功績は、自身への厳しさの賜物(たまもの)である。中学時代から文武両道に徹し、あえて険しい道を選んできた。そんな森は、果敢にがん治療の道を開きつつ、一方では、患者さんへのやさしさを何よりも大切にしている。

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森 正樹(もり・まさき)
大阪大学医学部附属病院 消化器外科学教授・診療科長
1956年、鹿児島県生まれ。80年に九州大学医学部を卒業後、九州大学医学部第二外科に入局。大学院では、消化器がんの病理学的研究を行い、終了後は再び外科教室に戻る。91年から2年間、米国ハーバード大学に留学。98年から2007年まで九州大学生体防御医学研究所教授を務める。
2008年、大阪大学に消化器外科学講座が発足したのを機に、教授に選任される。(取材時現在)

 

 

鹿児島県奄美大島生まれ。自然の中でのびのびと健康に育った。「父は教員でしたが、塾とか家庭教師とか、そういうものをすすめられたことはありませんでした」と子ども時代を振り返る。だが、小学3年生のとき、ガラス瓶を踏んだ際の傷が悪化して敗血症に。高熱に浮かされる中、往診医の声が耳に入った。「もうもたないかもしれない……」。死というものを初めて意識し、怖いと思った。
「それでも抗生物質を投与するなど、そのお医者さんが手を尽くしてくれたおかげで救われました。私が医師という職業を選んだのは、理系が好きということもありましたが、この出来事とも深く関係しているように思います」。成績優秀だった森は、中学から鹿児島市内にあるラ・サール学園へ。親元を離れての寮生活に寂しさはなく、サッカーに熱中。毎日、夕方6時まで部活に明け暮れた。だが、どんなに疲れていても、寮の規則を守って、2、3時間は勉強してから床に就いたという。「牧歌的な奄美で育ち、そのまま寮生活に入ったせいか、とにかく世間知らずでした。いまだに当時の担任に会うと笑いのネタにされるエピソードがありまして……」。

それは高校1年生の3学期のこと。志望大学と学部を書き込む進路アンケートに、森は「東京大学のサッカー部」と記入して、担任から「まじめに書け!」とどやされた。「大まじめだったんですよ。ただ、医学部もサッカー部も、『部』と付くものは、すべて並列の関係にあると勘違いしていたんです」。

ラ・サール高校の友人の多くは医学部に進み、森は九州大学の医学部を選んだ。そこでもサッカーに熱中。キャプテンまで務めると、卒業後は消化器外科を選んだ。「顕微鏡をのぞくのが好きだったので病理に進むつもりでしたが、外科に進んだサッカー部の先輩から、『サッカー部員が外科にこなくてどうする』って半ば脅されましてね」。

実際に外科に進んでみると、先輩のアドバイスに合点がいった。長時間に及ぶ手術をこなすには、体も精神もタフでなければならない。サッカー部での修練が大いに役立った。それに困難な手術をクリアしたときの充実感と患者さんのうれしそうな顔は、何物にも代えがたかった。「印象的な患者さんは大勢います。例えば、今から15年ほど前、腹部にたまった膿(うみ)が全身に回ってショック状態になり、緊急搬送されてきた女子大生もその1人です」。

他の病院で虫垂炎の手術を受けたが、同時にメッケル憩室にも炎症のあったことに担当医は気付かなかった。そのために容体が急変。危険度の高い緊急オペだったが、森は何とかそれを乗り切った。

それから10年ほど経ったある日、その患者さんが森の病棟に看護師として現れると、森にこう告げた。「先生に命を救ってもらったこと、とても感謝しています」。命を取りとめた彼女は、大学卒業後、進路を変更して看護学校に入り、看護師の資格を取得したのだった。

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「森先生はものすごい知識をおもちなので、研究に関して、私たちが考えもしなかった指摘やアドバイスを受けることがあります」と言う大学院生たち。彼らの森への信頼は厚い。右は、廊下に張り出された、院生の論文に対する森からのメッセージ。 「おめでとう!」「すばらしい!」「がんばっている」など、ねぎらいの言葉が並ぶ。
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