クローズアップ がんと闘う

患者さんに寄り添い乳がんの早期発見と早期治療の重要性を説き続けて―福田護( 聖マリアンナ医科大学附属研究所 ブレスト&イメージング 先端医療センター附属クリニック院長)

乳がんの専門医を目指そうと決意したのは、今から40年以上前のこと。将来のニーズを見越してだった。「すべては患者さんのために」代々続く医師の家系に育った福田には、無意識のうちにこの教えがたたき込まれていた。名医と称されるまでになった経緯についても「患者さんとともに成長できたから」と語る福田は、大学病院を定年退職した後も、附属のクリニックなどで休みなく働き、こう繰り返す。「すべては患者さんのために――」

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福田 護(ふくだ・まもる)
聖マリアンナ医科大学附属研究所 ブレスト&イメージング 先端医療センター附属クリニック院長
1943年、富山県生まれ。69年に金沢大学医学部を卒業後、国立がん研究センターの研修医を経て、1974年、聖マリアンナ医科大学第1外科学助手に。翌年渡米し、メモリアル スローン・ケタリングがんセンター、バージニア大学などで3年間学ぶ。帰国後、聖マリアンナ医科大学に戻り、2002年、聖マリアンナ医科大学外科学(乳腺・内分泌外科)教授に就任。09年より、現職。
日本乳癌学会、日本乳癌検診学会の名誉会員他、認定NPO法人 乳房健康研究会の理事長などを務める。著書に『よくわかる乳がん治療』(主婦と生活社)、『乳がん全書』(法研)など。(取材時現在)
 

1980年、30代半ばの福田は、友人の医師とともに1冊の本を書き上げた。タイトルは、『乳ガンなんか怖くない』。福田は日本やアメリカのがんセンターで研修医として経験を積むなかで、乳がんの専門医を目指そうと決意。聖マリアンナ医科大学第1外科で助手として働きながら、「1人でも多くの患者さんを救いたい」との思いをこの本に込めた。

「私が医師になりたてのころ、日本人に多かったのが胃がんで、研究も進んでいました。しかし、間もなく、肺がん、乳がん、大腸がんなどの患者さんが増えるだろうと予測されていたので、それなら、私を聖マリアンナに呼んでくださった先生とともに、乳がんの治療に専念しようと決めました」

乳がんの早期発見には自己検診が大切と、「月に1度は自分の乳房を触って異常を確かめてほしい」という意味の造語「タッチ・ユアセルフ」を福田は友人と一緒につくった。さらにその考え方や習慣を広めようと、病院スタッフと協力して地域の人々にステッカーを配ったり、病院勤務を終えた後、近くの集会所に女性を集めて説明会なども開いたりした。

「こうした試みは2年ほど続き、数千人と交流しましたが、やがて自然消滅。当時、私たちにあったのは情熱だけで、影響力もなく、啓発手段も思いつかなかった」

 

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医師になりたてのころの手術風景。国立がん研究センターにて。「医師として父からは多くのことを学んだが、父が専門とする精神科とは別の道に進みたかった」と当時を振り返る。

 

このころアメリカでは、乳がんで姉を亡くした妹が、姉の名を冠した「スーザン・G・コーメン乳がん基金」を設立。この基金は乳がんの患者さんを支援するピンクリボン活動(乳がんの正しい知識を広め、検診による早期発見や治療の推進などを目的とする世界的規模の活動)によって、国際財団に成長。福田は日本でも同様の運動を展開したいと2000年に3人の医師とともに「乳房健康研究会」を立ち上げた。

出身は富山県。祖父もその兄弟も医師なら、父親も叔父も全員が医師という家系に育った。父親が経営していたのは精神科の病院で、自宅とは離れた場所にあったが、病院関係のイベントには必ず家族で参加するのが福田家のルールだった。子どもにとって、精神を病んだ患者さんは特殊な存在。ときに「怖い」と思うこともあったが、父親や看護師たちの患者さんへの献身を目のあたりにすると、自分が間違っていたと気付かされた。

口癖である「主役は患者さん」「患者さんの目線を大切に」や、柔和な表情とやさしい口調は、こうした特別な家庭環境の中で育まれてきたのだろう。福田がまだ金沢大学の学生だったころ、新潟地震(1964年)が起こり、「医療活動に当たりたい」と被災地を目指したのも父の影響だった。

「私が5歳のときです。福井で大地震が起き、父親は医療救援に飛んでいきました。『医者とはこう生きるべき』とその姿に教えられたようで、そのときのことは今でも鮮明に覚えています」

 

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左:スポーツ好きの福田は、金沢大学時代、サッカー部に所属。ポジションはフォワードだった。 上:東京オリンピックで聖火ランナーを務めたことも(右端)。「ランナーの選考基準は、“日本を背負う20歳以下の若者”であったと記憶しています。私は石川県サッカー協会からの推薦枠で出ました。今では、素晴らしい思い出です」
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