がんと闘う名医

肺がんは難しい病。だからこそ医師として立ち向かう責任がある―中島淳(東京大学医学部附属病院 呼吸器外科教授・診療科長)

2015年3月17日

vol5_doctor01中島 淳(なかじまじゅん)
東京大学医学部附属病院呼吸器外科教授・診療科長
1982年、東京大学医学部卒業後、独立行政法人国立病院機構東京病院をはじめ複数の病院を経て、92年からワシントン大学医学部胸部外科留学。93年に帰国し、東京大学医学部胸部外科に入局。2001年、東京大学医学部呼吸器外科助教授に。2007年より東京大学医学部附属病院呼吸器外科診療科長。2011年、東京大学大学院医学系研究科呼吸器外科・同大学医学部附属病院呼吸器外科教授に就任。(取材時現在)
 

 

「治しにくい病気だからこそ治したい」強い思いに支えられて30年以上が過ぎた。患者さんのために尽くすのが医師としての本来のあり方と言い切る。だから毎日の激しい疲れも「楽しい」。そんな多忙な中島淳を支えるのは、決して屈しない、諦めない――並外れたチャレンジ精神だ。

 

東大の本郷キャンパス内にある東京大学医学部附属病院。ここから始まる中島の朝は早い。毎朝7時15分の会議に備え、7時には病棟回診を始める。前の日は朝8時から3件の手術をこなすために、10時間以上手術室に詰めていた。それから病棟を回り、スタッフとの打ち合わせをすませ、病院を出たのは午後10時過ぎ。いくら病院の近くに住んでいるとはいえ、毎晩帰りの遅い中島を家族が心配しないわけはない。それでも中島は、翌朝7時前には病院の研究室にいる。そして7時になると病棟回診のために研究室を飛び出し、みじんも疲れを感じさせない速さで院内を歩き回るのだ。

忙しさの理由は他にもある。科長としてすべての手術に責任を負い、週1回は外来の患者さんを30人以上診る。大学では講義もする。時間はいくらあっても足りない。だが、どんなに多忙でも、自分が求められている限り、患者さんの気持ちに応えたいと中島は思う。

「患者さんのために働くのが医師の仕事だから」。中島の言う「患者さんのため」とは、大勢の人々を苦しめる難病に立ち向かうことだ。20年前には、米国ミズーリ州のワシントン大学で肺移植を学んだ。医学界における移植手術の歴史はまだ浅いが、日本に比べてアメリカは進んでいる。日本で本格的に脳死移植ができるようになったのは2010年からだが、1980年代、欧米では、すでに肺移植後の拒絶反応をコントロールできるまでに進歩していた。ただし、中島はその経験や知識をまだ日本で発揮できてはいない。

「日本で肺移植が認められていたのは、東日本では東北大学、獨協医科大学など、限られた大学病院だけだったんです。それが今年の3月、ウチにも認可が下りて、ようやく肺移植ができるようになりました」

だからといって、すぐに肺移植ができるわけではない。脳死と判定される人は年間30〜40人。対して肺移植を待つ人は200人以上に及ぶ。「認可が下りても、実際の移植手術は早くても3年先。果たして何人の患者さんが待てるのだろうか……」。

心臓外科医としてのキャリアももつ中島は、長年思い描いていた肺移植を心臓移植と比較して、「心臓の場合は人工心臓が開発されているので、それで心臓の機能を代行することができる。しかし、長期使用できる人工肺はまだ開発されていない。医学と工学の領域を超えて人工肺の開発まで考えたことがありました」と語る。

病院内にある先進医療の研究室では、医師と研究者が意見交換をする。自由に語り合える空気こそが新たな道を切り開く。既存の抗がん剤治療では思うような効果が得られず、有効な治療がなくなってしまった肺がんの患者さんを対象にした免疫細胞治療の臨床研究も進行中だ。
病院内にある先進医療の研究室では、医師と研究者が意見交換をする。自由に語り合える空気こそが新たな道を切り開く。既存の抗がん剤治療では思うような効果が得られず、有効な治療がなくなってしまった肺がんの患者さんを対象にした免疫細胞治療の臨床研究も進行中だ。
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